日本語 文字を獲得するまでの1万年① 渡来人の影響(5) - 縄文人は稲作をどう受け入れたのか?①2008/09/30 09:24

縄文人はどのようにして、稲作を受け入れたのか?
いろいろなパターンが考えられそうです。

まず、渡来人が北九州から稲作を始める以前から、日本には稲作が伝わっていたという説があるようです。
しかし、縄文人は稲作を本格的には行わなかったのではないか、というのです。
その背景には、縄文人の自然に対する考えにあるようで、灌漑工事など大掛かりな自然への関与に否定的であったから、というものです。
もちろん、食料確保という背に腹は変えられないという状況ならば、そんなことも言っていられないのでしょうが、それ程切羽詰っていたという訳でもない、という意見もあるようです。

いろいろな見解はあるようですが、大きく分けて次の3パターンが考えられそうです。

a)渡来人が稲作を始めた早期から、縄文人も参加した
 おそらく渡来人に協力するという形から始まった。
 この場合、渡来人と縄文人の混血というのも、早くから始まった可能性が高いでしょう。

b)縄文人はしばらくは、稲作を静観していた。
 縄文人も、渡来人も今まで通りの生活スタイルであったというケース。
 渡来人が来てから世代交代が進んだり、新たな渡来人がやってきたりと、渡来系の人たちの人口が増加してくると、また状況も異なってくるのでしょう。

c)一部を除いて縄文人は、稲作に参加しなかった。
 前述の理由により、稲作に否定的であったとするケース。
 縄文人の一部の人が、渡来人の集落に合流するという形で稲作を行うということはあったとしても、縄文人の集落が集団で稲作には参加しなかったのではないでしょうか。

次回は、いろいろな視点から検証してみましょう。

日本語 文字を獲得するまでの1万年① 渡来人の影響(4)2008/09/27 20:22

渡来人は、在来人(縄文人)の言葉を覚えたのでしょうか?

外来者(渡来人)が現地の言語を習い覚えるには、次の三段階を経たであろう、というのは『縄文語の発見 / 小泉 保著』の引用です。

[第一世代] 渡来人はコロニーを作って母国語を使用していた。周囲の縄文人とは通訳を介して接触。

[第二世代] 家庭では母国語を用い、外部では縄文語を使用。(バイリンガルの状態)

[第三世代] 家庭でも外部でも縄文語を話した。

さて、第一世代ですが、知らない土地へやってきていきなり現地の言葉が話せないのは当然なので、母国語を使用するでしょう。しかし、”通訳”とは?
渡来人の一部が縄文語を覚えて、いずれ通訳になるのだろうとは思うのですが、縄文人が渡来人の母国語を覚えて通訳になるということも、
無いとは言えない気がします。
どちらにしても、通訳が育つにはどれくらいの期間が必要なのでしょうか?
接触の密度によると思うのですが、早くても数ヶ月、もしかすると数年から十数年もかかったかもしれません。

もしかすると、一世代くらいずれて、家庭でも外部でも縄文語を話したのは、第四世代くらいかもしれません。

大事な事を忘れていました。
渡来人が現地の言葉を習得するということは、現地の縄文人の数に比べて、渡来人の数が圧倒的に少ないということでしょう。
渡来人の方が多ければ、現地の言葉を圧倒してしまうでしょうが、それほど多数の渡来人が来たという証拠はないようです。

ただ、断続的に渡来人は来たようなので、その間隔が気になるところです。
世代が変わる間もなく、数年ごとに渡来人が来ていれば、渡来人の言葉は強く残るかもしれませんが、数十年以上の間隔があれば、次の渡来人が来たときには、世代交代が進み、言語の上では現地人とあまり変わらない人たちになっている、ということなのでしょう。

日本語 文字を獲得するまでの1万年① 渡来人の影響(3)2008/09/26 17:05

「日本語」から、ちょっと脱線しているような気がします。
しかし、渡来人の生活考慮しないと、在来の縄文人との交流もわからず、言語への影響もわかりません。

当初、渡来人が住み着いた土地は、在来の縄文人が生活していた土地とは違い、入り江や潟のようです。
稲作をするにも最適であり、在来人との衝突もなかったのでしょう。
また、漁労を行うにも最適です。

さて、稲作を始めるにしても、種籾や農耕具などは持ち込んだとしても、開墾するには、時間と手間がかかったことでしょう。
また、収穫までには、最短でも数ヶ月は必要なので、それまでの食料は在来人と同じ物も少なくないのではないでしょうか。
渡来人が山へ木の実などを取りに行くと、そこへ在来人が・・・、なんてこともきっとあったハズです。

渡来人が侵略的であったという話はないようなので、そこで在来人を襲うということはおそらく無かったのでしょうが、逆に渡来人が襲われるということは、無かったのでしょうか。

あまり根拠の無い話ですが、外来人に対する近代の日本人の対応、態度をみれば、もし二千年前から同じような気質であるなら、襲うなんてないでしょうね。

お互いに友好的であるならば、コミュニケーションの手段が必要になります。
基本的には、どちらかが相手の言葉を理解しようという方向になると思うのですが、さてどちらの言葉が有利なのでしょうか?

在来人は、渡来人を恐れていたのでしょうか、また避けていたのでしょうか? それとも強気でいたのでしょうか?
例えば、渡来人の存在に気づいた在来人が、周辺地域から仲間の縄文人を集め、渡来人の集落へ向かった、なんてことがあったのでしょうか?

どちらの立場が上か下かというと、ちょっとニュアンスが違うような気がしますが、お互いが生活する上でどちらが有利であったか不利であったが重要なのでしょう。

渡来人は、稲作という新しい技術を持ってきたとはいえ、すぐに豊かな生活ができたとは思えないので、在来人に頼る場面もあったかもしれない。
そうであるならば、渡来人は在来人の話す言葉(縄文語)を覚えるべく、縄文人の言葉に耳を傾けたのではないでしょうか。