『日本語の誕生』(沖森 卓也:吉川弘文館)2010/04/15 16:38

 しばらくぶりに、本題に戻ってきたような気がします。
 まだ、半分くらいしか読み終えていないのですが、まさに追い求めていた本の一つです。

 結局のところ、どんな言語であっても、文字による記録に頼らざるを得ないのですから、本書でも発掘された文字史料が元になります。
 当然、日本で発掘される文字史料の古いものは「漢字」による表記ということになるのですが、その漢字の使われ方が時代によって異なるということを、紐解いています。

 なんて書くと、理解しているようですが、正直なところ、いまいち理解しきれていません。
 それでも、漢文から始まって、同じ漢字による文章で一見同じように見えても、少しずつ固有語(和語)が、混じった文章に移り変わっていく様子が、何となく分かります。

 以前紹介した『漢字と日本人』(高島俊男)や、『訓読みのはなし』(笹原宏之)が、役に立っています。もし、これらを読んでいなかったら、もっとチンプンカンプンだったに違いありません。

 実はこの本、さほど新しい本ではないので、過去に書店で手に取った事があるのです。
 タイトルからして、とても気になる存在であったのは、間違いありませんが、中身を見てみて、とても理解できる気がしないと思ったのを記憶しています。
 今回は、その時に比べて”拒絶反応が小さかった”ので、買ってみましたが、何とかなるものです。

 ただ、この本では、大きな流れを理解するのには、とても役に立ちそうですが、詳細なところについては、また別の書籍が必要になりそうな気がします。(当たり前の話ですが・・・。)

 久しぶりに、”読んだら終わり”にしたくない、そんな本なので、何とか形にしたい・・・、と思ってはいるのですが・・・。

『古事記』と『日本書紀』、面白いと言えば、そうなのだが・・・。2010/02/07 17:30

 ようやく、『図解 地図とあらすじでわかる!古事記と日本書紀』(坂本勝:青春出版社)を、読み終えました。
 『古事記』と『日本書紀』、いわゆる『記紀』については、ほとんど知識の無い私でも、なんとなくわかったような気がします。
 多くの人が研究し、さらに多くの人が関心をもって『記紀』を読んでいるのが、少しは分かったような気がしますが、あまり現実味を感じられないのが、正直なところです。

 私の場合、これまで、どちらかと言うと、考古学的な本を好んで読んできました。
 実際に、地面の下から出てくる”物”には、それ相応の説得力があります。
 もちろん、年代の問題から、その”物”の解釈に至るまで、出てきたからといって簡単な話ではないことも、一応は分かっているつもりです。

 それに対して、『記紀』は、物語的な部分も多く、また神話的な表現は、どう解釈して良いのか、悩むところです。
 もちろん、”そのまんま”では無いのは分かりますし、その当時の人々の”思惑”のようなものも、ある程度含まれているのも、なんとなくわかりました。

 やはり、どうしても、考古学的な物による理解と、『記紀』の内容とは、かみ合わないという印象は拭えません。
 それは、前から何となくは分かっていた事でもあり、神話的な話は、あまり関心もなく、あえて避けていたとも言えます。

 以前、少しだけ紹介した『日本語の正体 倭の大王は百済語で話す』(金 容雲:三五館)では、『記紀』をはじめとして、中国の歴史書を多く参考にしており、著者の仮説の主体がこれらの文献資料とも思えるような、書き方をしていました。
 私にとっては、知らない事の多い分野とはいえ、なんとも理解しがたい、そんな印象でした。

 そういったことを思い起こすと、考えたくなるのは、「『記紀』 と考古学を、照らし合わせることはできないだろうか」と。
 そうやって『記紀』の記述を証明できる考古学的な”物”が存在すれば、信頼できる部分と、そうでない部分の仕分けができるのではないか、と。

 探したら、ありますね、そういう本が。
 『記紀の考古学』(森 浩一:朝日文庫)です。
 まだ、読み始めたばかりですが(いつもの台詞ですね)、まさに目的どおりの内容、といった感じです。

『漢字と日本人』-高島俊男/文春新書2009/12/18 19:17

 最近、このブログの本筋とは、ちょっとずれた話が多かったように思いますが、この本はだいぶ近いでしょう。
 しかし、タイトルからも想像できるように、日本で文字が使われる以前のことについては、まったくと言ってよい程、触れられておらず、日本語における「漢字」の存在について、今まで気にも留めていなかったようなことが書かれています。

 今更ながらに感じたのは、なぜ、こういう本をもっと早く読んでおかなかったのだろう、と。
 日本語と、その起源を語る上で、「漢字」という文字の存在は、当然のことながら切っても切れないものです。
 カタカナやひらがなは、漢字の略字からできたものであることは、多くの方がご存知でしょうし、それらができる前は、漢字が唯一の「文字」であった訳です。

 その「漢字」をどのように、当時の日本語(和語)に当てはめていったのか、というところまでは、古典文学を学べば分かるのかもしれません。(私は、とても苦手な分野なので、たぶん、ある程度は分かるのでしょう・・・。)
 ところが、その漢字を用いたことによる弊害とでもいうのか、無理やり日本語に組み入れたような事情については、気づきにくいような気がします。
 その辺りのことを、この本は気づかせてくれるでしょう。

 そういう事をある程度分かった上で、漢字が取り入れられる以前の日本語、というものを考えることができるようになる、そんな気がします。
 更に言ってしまうと、これはまだ直感でしかないのですが、漢字が取り入れられてからの日本語の変化や、いろいろな事情が理解できると、それ以前の日本語について、あれこれ考える必要がなくなるのではないかと。
 もしも、そうなったら、このブログの目的は、半減してしまいますね。(そう簡単に、そこまで理解できるものではないでしょうが・・・。)

 それはともかく、この本で著者は、日本に漢字が導入されたことを”不幸”であるかのような書き方をしています。
 その理由については、簡単には説明できないのですが、言いたいことは分かる気がします。
 そこで、思い出すのは、以前、ちょっとだけ紹介した『漢字廃止で韓国に何が起きたか』(呉 善花:PHP研究所)です。
 この本では、漢字が廃止された韓国を嘆き、漢字を使わないと十分な文章表現ができない、その為には、韓国語ではなく、日本語を使わなければならない、と言っています。
 漢字、かなまじりの日本語を、まるで絶賛するかのように書かれていたので、『漢字と日本人』は、まるで対照的な印象を与えます。

 まだ、三分の二くらいしか読み終えていないのですが、それまででも、結構ショックを受ける内容もあったので、続きが楽しみのような、ちょっと怖いような・・・。