縄文農耕について、ふと思う事2011/01/26 06:24

 古代より日本列島に暮らす人々の生活を変えた、大きな出来事として、稲作の伝来があり、それが、縄文時代から弥生時代への転換の最大要因である、というのが一般的な見方ではないでしょうか。
 ただし、稲作の伝来ルートや、その時期など、いくつかの説が入り混じっているようで、はっきりしない点もあります。
 また、本格的な水田稲作の伝来以前に、陸稲による農耕説(縄文農耕)も存在します。
 いずれにしても、水田跡の発掘や、炭化米、プラントオパールの発掘など、考古学的な証拠を元に推定したものです。
 ただ、さまざまな説がある中、私としては、いまいちすっきりと納得できるものが無い、というのがこれまでの印象です。

 まだ、読み途中なのですが、銃・病原菌・鉄〈上巻〉』(ジャレド ダイアモンド:草思社)を読んでいると、また違った発想が浮かんでくるのです。
 今のところ、日本列島の農耕について直接触れられてはいないのですが、農耕の始まり、発達についての世界的な動きを考えると、日本列島においても、今までと異なる視点が求められるような気がするのです。

 狩猟採集民が、定住生活を始めるにあたって、植物栽培や家畜の飼育が、大きな要素となることは、『銃・病原菌・鉄』を読めば良く分かります。
 では、日本列島に住んでいた縄文時代の人々は、どのような生活をしていたのかと思い起こすと、疑問が沸いてきます。

 縄文人を、「農耕民」か「狩猟採集民」かと、問われれば、「狩猟採集民」であると答えて、まず間違いないでしょう。
 また、縄文人は、「定住生活」をしていたか否かと、問われれば、「定住生活」をしていたと答えて、まず間違いがないでしょう。
 単純に、植物栽培や家畜の飼育が、定住生活への必須条件だと考えれば、辻褄が合いません。しかし、世界には定住しない放牧生活をしている人々も多く存在するので、そう単純に考える訳にはいきません。

 ここで、「なぜ縄文人は定住生活を始めたのか」、そんな基本的なところを、今一度考え直してみたいと思います。
 『銃・病原菌・鉄』では、農耕と定住には、一種のせめぎ合いがあるといいます。
 農耕による食糧の安定供給がなければ定住は不可能であるし、逆に、定住を前提としなければ、農耕は成立しない、という考えです。
 日本列島に住んでいた縄文人に、この考えは当てはまるのでしょうか。
 本格的な農耕の形跡は無いが、定住生活をしていた形跡は存在するので、単純にこの考えが当てはまるようには思えませんが、縄文人にとって無関係であるともいえないでしょう。

【縄文人は仕方なく定住したのでは】
 この表現には、多少語弊があるかもしれません。
 ただ、定住できる要件がそろった事により定住を始めた、と考えるより、移動生活をすることに限界が来たことにより定住を始めた、と考える方が納得がいきます。
 大型の野生動物が居なくなった縄文時代の日本列島では、追いかける獲物がおらず、移動生活をするよりも、身近な植物や、魚介類に頼らざる得ない状況であったのでしょう。
 一つの集落が生活するのに必要な食料を採取するのには、当然、広大な面積の土地(海)が必要であったので、人口密度が上がる事はなく、「ギリギリの生活」であったといえるでしょう。

【縄文時代の農耕とは】
 少しでも植物栽培を行っていれば「農耕」と言えるのでしょうか。
 『銃・病原菌・鉄』では、農耕により余剰食糧が生まれ、その食糧によって食糧生産以外に従事することができる労力が生まれることが前提と考えています。それにより、専門職が登場したり、政治的な発達があるということです。

 さて、縄文人の暮らしを思い起こして見ると、とても余裕のある暮らしとは思えません。
 いくら、縄文時代の地層から、炭化米やプラント・オパールが検出されたからといって、それが「農耕」の証拠であるとは、言えないでしょう。農耕の初期段階であったかもしれない、というのが限界ではないでしょうか。

【三内丸山遺跡】
 縄文時代の遺跡として、もっとも大規模な遺跡として有名なのが、青森県の三内丸山遺跡でしょう。
 三内丸山遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末までを中心に、およそ千五百年続いた大規模集落の跡地です(『縄文の生活史』岡村道雄:講談社より)。
 三内丸山遺跡では、豊かな自然の恵みと共に、クリを始めとした植物栽培も行われており、比較的、農耕社会に近い生活をしていたようです。
 しかし、栽培を生業の主体とすることが無かったのは、自然の恵みが豊かであったからと考えられています。

【縄文人が農耕を始めなかった理由】
 『銃・病原菌・鉄』では、世界の各地域ごとに、その土地の人々が農耕を始めなかった理由について考察していますが、同じように日本列島について考えてみると、どうでしょうか。
 一言で言うなら、日本列島には、コメやコムギといった、現在主食となり得る植物の野生種が存在せず、また他にも効率的な農耕が行える植物が自生していなかったので、農耕を始める事ができなかった。
 決して、縄文人の能力に問題があって、農耕を始められなかった訳ではないといえるでしょう。
 実際に、縄文人は、日本列島に自生する植物の栽培については、いろいろと試していると考えられます。
 先ほどの三内丸山遺跡のクリの栽培についても、一年草であるイネ科の植物よりも、収穫まで長い年月を必要とし、決して簡単ではない栽培を行っているからです。

【稲作の伝来と伝播】
 稲作が九州北部へ伝来すると、急速に東へ向かって伝播して行ったと考えられていますが、その担い手は誰だったのでしょうか。
 一説には、稲作を伝来した渡来人が大量にやってきて、全国各地へ広がり、稲作を始めた云々、といったものもありますが、本当でしょうか?
 少なくとも、これまでの考察からは、稲作の伝来を知るやいなや、縄文人たちはそれを実践し、農耕社会を確立する素質が十分にあったと考えられます。
 稲作の伝来以前に、既に定住生活を行っていたが故に、農耕を受け入れる下地ができており、急速に伝播していったことが理解できるのではないでしょうか。

【おしまい】
 ”ふと思う事”にしては、だいぶ長くなりましたが、遺物などの一つ一つの小さな証拠にとらわれ過ぎるよりも、広い視点で考える方が、全体としてスッキリとした筋の通った解釈ができるような気がします。
 言葉が足りなかったとは思いますが、いかがでしょうか?