『新語はこうして作られる』・・・今は頭の片隅に。いずれ役に立つ時が!2009/05/01 15:05

『新語はこうして作られる』(窪薗晴夫:岩波書店)を読み終えて、しばらく経つのですが、噛み砕ききれていないというのが、本音です。

言葉は変化するものだと思っているので、現在進行形の変化の仕方から、過去の言葉の変化を推測することもできるのではないか、という期待がありました。

しかし、それには、それ相応の言語能力が必要だということを思い知り、これといった閃きはありません。
基礎ができていないのに、応用ができるわけがありません。

そういう訳で、この本に関しては、今のところ深く考察できるものでもなく、とりあえず頭の片隅にしまっておいて、後々に役立つことを期待するのみです。

最後に少しだけ。
以前、このブログで「日本語の変化について考える」(2008/12/9付)で、知識もなく、思いつくまま連ねた事が、この本でだいぶ解決したように思います。
ただ、この時「音節」と表現していたのは、言葉の間違いで、正確には「モーラ(拍)」と表現しなけらばならなかったようです。
この時、取り上げた単語を、音節とモーラで表してみます。
(漢字、一文字ごとに表すので、漢字二文字だと、○+○と表します。)

「管理」・・・音節(1+1)、モーラ(2+1)
「画面」・・・音節(1+1)、モーラ(1+2)
「記事」・・・音節(1+1)、モーラ(1+1)
「作成」・・・音節(2+1)、モーラ(2+2)
「編集」・・・音節(1+1)、モーラ(2+2)
「新規」・・・音節(1+1)、モーラ(2+1)
「削除」・・・音節(2+1)、モーラ(2+2)訂正-×(2+1)
「設定」・・・音節(1+1)、モーラ(2+2)訂正-×(1+2)

正直、合っているかどうかちょっと自信がありません。
この本では、2モーラ+2モーラ=4モーラの単語が多く作り出される、ということでしたが、ここで挙げた例は、そうでもないようです。

ただ、このモーラという単位が、言葉を作り出す上で、ある一定の規則性があり、とても重要だということは、なんとなく理解できました。

今まで読んできた日本語の起源に関わる話では、他言語との比較において、音韻の変化等を取り上げて単語の対応を示すことはありましたが、この「モーラ」を意識していたのかどうか、少し疑問に感じてきました。(良く分かりませんが、多少は考慮する必要がある、そんな気がします。)

【訂正】
予想どうり、間違っていたので一部訂正しました。
2+2=4モーラの単語は、やはり多いようです。

『日本人の起源 古人骨からルーツを探る』①-古人骨について幅広く書かれているのがこれ2009/05/02 21:15

先日まで、数回に渡って考えてきた”人骨”の問題ですが、『縄文人と「弥生人」古人骨の事件簿』(片山一道:昭和堂)を見る限りでは、何とも歯切れの悪いまとめ方しかできませんでした。

そこで、以前読んでいたのですが、ここで紹介していない本を、少し読み返して見たのです。
『日本人の起源 古人骨からルーツを探る』(中橋孝博:講談社選書メチエ)です。
とても興味深い内容が書かれているので、ここでも取り上げたいと思ってはいたのですが、きっかけを逃していたというか、どこから切り込んで良いのか分からずにいたので、そのままになっていました。

片山氏の『縄文人と・・・』では、はっきりしなかった部分について、もう少し進展のあるまとめかたができると思います。
この本の中で、もっとも特徴的と思えるのは、弥生時代の後半になって、渡来人の特徴を持つ人骨が多数を占める理由を、混血を考慮した人口シミュレーションによって説明しているところです。

その内容については、後々にまとめていきたいと思いますが、その前に少し寄り道をしようかと思います。

この本の第四章に、「日本人起源論-その論争史」と題した、日本人の起源論の移り変わりの歴史を、簡単にまとめたものがあります。
読み返して見ると、これがなかなか面白いもので、今では当たり前だと思っている説についても、冷静に見直すことができます。

ごくごく簡単にまとめるつもりではありますが、少し長くなりそうなので、合間合間に少しずつ、進めて行こうかと思っています。

『谷村新司・まぁるい日曜日(ニッポン放送)』-四角い頭で考えてみました2009/05/03 15:00

仕事柄、車の中でラジオを聴くことがあります。
聴くラジオ局は、曜日、時間帯でだいたい決まっているのですが、AMのニッポン放送も、その一つです。

積極的には聴かないのですが、ときどき流れで聴いていたりするのが、日曜午後1:00からの「谷村新司・まぁるい日曜日」です。
今日も、たまたま耳にしたので、何となく聞いていると、ちょっと気になる話をしているではないですか。
”気になる”というよりも、”聞き捨てならない”話といった方が正しいかもしれません。

途切れ途切れで、聴いていたので、話の流れは分からないのですが、気になる部分を要約すると、次のようになります。

「骨」を英語で「bone(ボーン)」と言う。
そのまま読めば、「ぼね」とも読める。
「背骨(せ・ぼね)」とか、「肋骨(あばら・ぼね)」と同じ。
元を辿れば、同じ言葉のような気がしてきませんか。

と、こんな感じだったと思います。

さて、この番組のこのような話に対して、あまり真面目に捉えるのもどうかと思うのですが、前々から、いろいろな話を小耳に挟む度に、どうも腑に落ちない、あまりにも話しがスマートで単純すぎる、そんな印象を受けていた番組なので、少しくらいは反論してもいいでしょう。

ただ、反論といっても厳密には反論できません。
そんなに簡単ではないだろうと、疑問を呈する程度です。

まず、英語の「bone」ですが、これにも語源はあるようで、「bone」という単語が成立した後に、日本語に入ってきたとも考えられないし、日本語の祖語を話す人達が、「ぼね」という単語を持って日本にやってきた、というのも考えにくいですね。

また、「ほね」の元が「ぼね(bone)」という理論のようですが、連濁という現象から考えると、「ほね」から「ぼね」への変化ではないでしょうか。

ちなみに、どんな言語間でも、他人の空似というのはあるようで、「name」と「名前」、「boy」と「坊や(少年)」と同じと見る方が自然でしょう。

さて問題は、正確な話ではないと分かっていながら、言葉遊びのようなものとして、このような番組を作っているのか、本当にそのつもりで作っているのか、多くの視聴者が鵜呑みにしてしまいそうな、そんな雰囲気を持つ番組だけに、気になるところです。