「想像をたくましくして・・・」2009/01/12 20:25

考古学者や、人類学者など書いている、先史時代に関する文献を読んでいると、ときどき出てくるのが、「想像をたくましくして・・・」という表現です。

遺跡や、遺物、人骨など、物的証拠をもとにして、その時代のさまざまな事柄を調べる、考えるという職業柄、むやみに憶測で物事を語らない、という配慮が感じられます。

実際、遺物や人骨などが、出土したとしても、その数が少なければ簡単には証拠として扱わない慎重さがあるようです。
もちろん、年代測定の誤りや、さまざまな例外が考えられる為、より多くの証拠の積み重ねが重要という訳です。

しかし、慎重になりすぎていても何も語れない、ということになってしまうので、証拠としては十分でないにしても、それを元に一つの可能性を語ることはできます。
そのような時に使われる表現が、「想像をたくましくして・・・」となるようです。

事実だけを並べられても、読んでいる素人には、そこから何が見えてくるのか分かりませんので、このような表現があれば、こちらもいろいろと想像が膨らみ、読んでいて楽しくなるというものです。

さて、では自分自身のこととなるとどうでしょう?
このブログでは、「日本語の起源を探る」などというあまりにも大きな目標を立ててしまった為に、先が見えなくなっているのが現状です。
しかし、あらためて考えて見れば、言語学者にとっても”お手上げ”に近い状態のこの問題に、確たる証拠がでてくることに期待できるものでもありません。
すると、このブログは、

「日本語の起源を”想像をたくましくして探る”ブログ」

ということになるのでしょう。
「想像」が「妄想」にならないように気をつけよう、というのが今年の目標の一つになりそうです。

弥生時代の渡来人について再考しようかと2009/01/18 15:19

年末に「弥生時代早期の人骨」というタイトルで、簡単に結論だけを述べたのですが、もう少しきちんと整理したいと思っていました。

この結論は、「日本人の起源 古人骨からルーツを探る」(中橋孝博:講談社選書メチエ)によるものなのですが、もう少し掘り下げて見たいと思っています。

そう思いつつも、「弥生の村」(武末純一:山川出版社)を読み進めていたら、少しイメージが変わってきました。
この本は、”日本史リブレット”というシリーズの一冊で、100頁ほどの薄い本なのですが、いろいろと面白いことが分かりました。

細かいことは、後々まとめるとして、この本で再認識させられたのは、”人の動きは遺跡・遺物から追える”ということです。

弥生早期の北部九州において、人骨の出土が皆無であっても、遺跡・遺物は多く発掘されており、それによって渡来人の動きを見ることができます。
個人的な結論としては、”少数渡来”ということに変わりはないのですが、その根拠を、ある程度示すことができそうです。

渡来人については、昨年の9月~10月にかけて、このブログの最初の課題ともいえるようなもので一定の結論を出したのですが、それに追加・補強する形で、まとめてみたいと思っています。

水稲耕作をもたらした渡来人は、縄文人に呼ばれて来た!?2009/01/19 19:42

九州北部へやってきた渡来人について、まとめるにあたって、まずはその基本的な前提条件を整理しようと考えていたら、今まで考えなかったことを思いつきました。

まず、水田跡の遺跡や、人骨、その他考古学的な資料によって、朝鮮南部の人達が渡来人であり、まず最初に北部九州へやってきた、ということは、ほぼ間違いが無いと思います。

そこで、渡来人が北部九州へやってきた理由については、いろいろと説があるようですが、共通しているのは、”渡来人の都合でやってきた”と考えられているようで、私自身もそのような認識でいました。

そのように考えると、当然、土着民である縄文人との摩擦という懸念が生じ、侵略的な発想をする人から、友好的で温和な融合を連想する人まで、さまざまな考えが出てきます。

しかし、もしかすると”渡来人の都合でやってきた”というのとは、少し違うことも考えられるのではないかと思うのです。
もちろん、証拠といえるようなものは無いのですが、合理性が無い訳ではない気がします。
例によって「想像をたくましくして考える」と、次のようになります。

渡来人が北部九州へ水稲耕作を始める前から、朝鮮南部と九州北部の人々では、交流があったと考えます。
これは、縄文時代から大陸との交流があったことから、不自然なことではないでしょう。

そして、その交流の中で、朝鮮南部へ渡った縄文人が、水田を目にすることがあってもおかしくはないでしょう。
そうなると、米を口にすることもあり得るでしょうし、それに魅力を感じることでしょうし、縄文人の地元でも水田が作れないかと考えるのが自然の流れでしょう。

そこで、水田を作るために、縄文人が積極的に渡来を促すこともあったかもしれません。
そこまで積極的でないにしても、縄文人が”承知の上での渡来”という可能性もあるのではないでしょうか。
それならば、縄文人と渡来人との摩擦の問題は、まず無いといえます。
また、男性主体の少数渡来であったという説にも、納得がいきます。

仮に、上記のような前提で、言語について考えてみると、渡来人の言語が現在の日本語の起源になっているという可能性は、かなり低いといえるでしょう。

しかし、弥生時代中期以降の甕棺墓から出土する人骨の形態については、どうも辻褄が合わない気がします。
その辺りについては、またじっくりと考えてみたいと思います。